願海の真仮を明らかにされた親鸞聖人の教えを聞かせていただきました。


 親鸞会のテレビ座談会で、『歎異抄をひらく』の内容を通じて、親鸞聖人の教えを聞かせて頂きました。

 本師本仏の阿弥陀仏には、48のお約束があります。

 弥陀の四十八願といわれるものです。

 その中で「あらゆる人を救い摂る」と誓われた願は三つです。

 それは、十八・十九・二十の三願のみです。

「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」

と誓われた十八願は、自らの意(本心)に随って建てられたものですから、これを随自意(ずいじい)の願とか、王本願といわれます。


 なにしろ、昿劫流転の自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、絶対の幸福まで導くことは、難中の難事、善巧方便が不可欠だったのです。

 十九・二十の二願は、そのために、阿弥陀仏が建立なされたものです。

 十八願、絶対の世界へ導くために、しばらく私たち(他)の意に随って誓われたものですから、十九・二十を、随他意(ずいたい)の願といわれます。

 強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。

 できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、弥陀の正意なのです。

 随自意、真実の願に誘引するための、随他意、方便の願だから、三願は孤立したものでないことを開顕なされたのが親鸞聖人の『教行信証』です。

 弥陀が、十八願のみで救済できるなら、方便二願を建てられるはずがありません。


 その阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳の願」と言われています。

「諸の功徳を修し」とは、仏教で教えられる諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。

 知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまいます。

 実行しなければ、結果は分かりません。

「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏が十方衆生に勧められているのが十九の願です。

「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人がいるでしょう。

 それは、凡夫の計らうべきことではないのです。

 偏に弥陀のお計らいです。

 阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして私たちが計らえるでしょうか。

 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられています。

「補処(ふしょ)の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」(末灯鈔)

“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”


「仏教は聴聞に極まるのだから、善の勧めは遠回りだ」と言う人は、「阿弥陀仏の準備なされた釤三願転入釤より近道がある」と言っているのと同じです。

 そんな釤弥陀より偉い釤人は、弥陀に救われる必要のない人になります。


 誤りやすいところなので、正しく理解し、光に向かって進ませて頂きたいと思います。

 参詣された方の声を紹介しましょう。

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・一生造悪の者に阿弥陀仏はなぜ善を勧められているのか?十八願だけでよいではないか?
 これに対し親鸞聖人は「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」と教えておられるとお聞きしました。


親鸞会のテレビ座談会に参詣させて頂きました。阿弥陀仏の救いは、この世で正定聚に救い摂り、死んで極楽に往生させる二益法門であると教えて頂きました。


・「願海に就きて真あり 仮あり」ここを明らかにされたから、親鸞聖人は世界の光と言われるとお聞きしました。


・矛盾した存在である私達が、阿弥陀仏の本願をどれだけ聞かせて頂いても、矛盾であるとしか思えない。
 自分が矛盾としか思えないからと言って、自分の考えに合わせて勝手な解釈することは、大変おそろしいことだと知らされました。教えていただくとおりに進ませていただきたいと思います。