「ただ念仏して」の「ただ」とは 親鸞会のテレビ座談会より


 富山県親鸞会館で行われたテレビ座談会を、京都で皆さんと中継で聞かせて頂きました。
 参加された皆さんの声を聞いてみたいと思います。

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・『歎異抄』に、親鸞におきては「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」、と書かれてある「ただ」は阿弥陀仏の本願のことで、阿弥陀仏の約束通り一念で信楽に救われたことを仰っていると知りました。


・「ただ念仏して」の「ただ」についての誤解を正して頂きました。親鸞聖人の言われる「ただ」は「ただ念仏さえしておればそれでよい」と言う「ただ」ではなく、一念で自力が死に、他力になった時を「ただ」と言われた。この「ただ」の二字に一切経がおさまると聞かせて頂きました。


・『雑行をすてよ』を『善をすてよ』と解釈するのは、釈迦一代の教え、一切経を反故にすることだ、と知りました。
『善をすてよ』ということが、いかに誤解されているか、浄土真宗の学者でも誤って理解しているところなので、正しい意味を伝えていきたいです。


・『領解文』の「雑行・雑修・自力のこころをふりすてて」とある雑行、雑修、自力の心はそれぞれ、19願・20願・18願から出てくると、お聞きしました。三願転入が教えられていることを知り、親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた方が蓮如上人だと改めて知らされました。


・「ただ念仏して」のただは、念仏さえ称えていればよいと言うただでは無く、一念で救われる阿弥陀仏の本願である。と聞かせて頂きました。