城陽市にて 〜真実の自己を映す鏡〜

今日は、京都府城陽市で、「真実の自己」についてのお話でした。

「知るとのみ 思いながらに 何よりも
 知られぬものは おのれなりけり」

の古歌もあるように、200億光年先の宇宙が分かっても、素粒子の世界が解明されても、30億のヒトゲノム(遺伝子)が解読されても、依然として分からないのが私自身なのです。

 なぜ、自分自身が分からないのか。
 近すぎるからです。

「目、目を見ることあたわず、
 刀、刀を切ることあたわず」

 千里の遠きを照らす灯台も、その下は真っ暗がりなように、他人のことはよく分かっても、自分のことは盲目同様なのです。

 では、本当の自分を知るにはどうすればいいのでしょう。近すぎて見れないものには鏡が使われます。

 私を映し出す鏡はいろいろ思い浮かびますが、ありのままの自己を映す鏡によらねば、"本当の私"を知ることができません。

 仏という無上のさとりを開かれたお釈迦さまは、

「仏教は法鏡なり」

といわれ、仏教こそ、真実を映す唯一の鏡だと教えられています。

「法」とは真実。法鏡とは"真実の自己を映す鏡"ということです。

 仏教の聞き初めのころは、法鏡から遠いため、自己の真実を教えられても、「私のことではなかろう」と思っています。

 ところが、重ねて真剣に聞いていきますと、自分の本当の姿が知らされてきます。

 鏡に近づけば近づくほど、遠くにいた時には見えなかったシワやアザ、醜いものが見えてくるように、仏法を聞けば聞くほど、自己の真実が知らされてくるのです。